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アウトレイジ2』/北野武



『アンドロイド版 三人姉妹』/平田オリザ

アフタートーク平田オリザさんが「アンドロイドは、空気を読まない(読めない)という設定」を積極的に利用しているという趣旨の発言をしていたが、劇中ではアンドロイドによる空気を読まない発言が周囲の人々を翻弄する場面がいくつも登場する。アンドロイドの発言に翻弄される生身の人間達が「アンドロイドなんだから多少空気を読めなくてもまあ仕方がないか」という了解を前提として振る舞う一方で、アンドロイドは「空気を読まないアンドロイド」という周囲の了解を認識した上であえてそのように振る舞っているのではないかと疑わせるような二重性が面白かった。実際のところアンドロイドが本当に空気を読めないのか、あえて読めないふりをしているのかは劇中人物にも観客にも分からない。
そして、上記のような了解を前提として登場人物がアンドロイドに対して示す寛容さも、アンドロイドが自分の立場を脅かす他者として立ち現われるような場面では「スイッチオフしてやる!」というような排除の方向に逆転する。
一見すると寛容な態度が「所詮アンドロイドだから」という相手を一段低く見る態度もしくは相手に対する無関心に結びついているかもしれないこと、一方で「たとえアンドロイドでも許せない」という態度は相手を対等以上の存在として認めているようにみえる。
コミュニケーションにおけるこの微妙な線引きを浮かび上がらせることがアンドロイド演劇の醍醐味かと思う。
さらに、この種の線引きが実は生身の人間同士のコミニケーションでも起こりうるということを簡潔に伝える次のやり取りが劇のクライマックスだったのかと思う。

人間:「アンドロイドだからって何を言ってもいいってことにはならないだろう!」
アンドロイド:「人間だって(空気を読まないことを)言うじゃない。」

この場面で俺の心がざわざわしたのはそういう理由なんだろう。


これまで書いたこととは全く関係ないけれど、
アンドロイド演劇はあくまで人間による人間のための演劇であるという当たり前のことを見せつけられて軽いショックを受けた。
どうやら俺はアンドロイドによるアンドロイドのための演劇というのを密かに期待していたようだった。
それがどんなものになるのか人間には想像もつかないような演劇。
最新技術を取り入れて自分の表現を追求する平田オリザさんの姿勢に感服する一方で、技術を利用する人間という構図はどこまでも強固で、業が深いなとも思った。業とは何か、よく分からないけれど。

ところでアンドロイド研究者で本作にもアンドロイドを提供している石黒さんは著作を通じてイメージしていたよりも魅力的な人でした。語り口調の著作はイマイチだったけど、今日のアフタートークは面白かった。