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「三角関係」とは、いうまでもなく、近代における散文形式のフィクションの多くが基本の題材とした心理的な葛藤構造にほかならないが、松浦理英子は、うんざりするほかなはいその葛藤構造をここで小気味よく脱臼させてみせる。房恵の犬への「生成」は、兄彬と梓との近親相姦的な性交渉がそうであるように、あくまで「三角関係」を脱臼するための手段にほかならず、それを描くことが作品のめざす真の目的ではない。「性行為に執着はない」という房恵が梓の犬になりたいのは、そこに「キスだの乳房だの性器だのの性的な事柄はいっさい出て来ない」からなのだが、その非性器的な振る舞いが、「三角関係」という葛藤構造を無効にすることになるのはいうまでもない。
誰もが知るごとく、「三角関係」を成立せしめる心理的な葛藤構造とは、本質的には、異性である他者の所有をめぐるものであり、そうと明言されていなくとも、そこには肉体的な所有が暗黙の前提とされている。同性の所有としてもその葛藤構造に多くの変化は及ぶまいが、松浦理英子が描こうとしているのは、いたるところで社会を成立せしめる他者の所有という権力関係が隠している「性的な事柄」のあやうさだといえるかもしれない。あるいは、そのあやうさにもかかわらず、それがなお執拗に社会を支えていることにうんざりしている三人の男女を視界に浮上せしめた作品が『犬身」だといってもよい。

『犬身』「解説」/蓮實重彦

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 前作『親指Pの修行時代』において、「尋常ならざるもの」=「非・性器的」=「反社会性」は、「尋常なもの」=「性器的な」=「社会通念」との葛藤の末に獲得すべきものだった。それゆえの「修行時代」だった。社会性と反社会性の葛藤は、テーマは過激でも、読者にとって感情移入し易いものである。

 それが、『犬身』においては、物語の語り手である房恵は、犬になりたという願望(「尋常ならざるもの」)を、日頃から違和感のないものとして(「尋常なものとして」)、既に物語の冒頭から受け入れている。その意味で、『親指P〜』よりも、ずっとラジカルで実験的な設定となっているし、『親指P〜』後に書かれた作品としての必然性も感じさせる。つまり『犬身』は修行後の物語であり、『親指P〜』の後に、『犬身』を書いた松浦さんは誠実な人だなと思う。その設定があまりにもラジカルなので、一読しただけでは、松浦さんの意図に全く気付かなかった。蓮実さんの解説を読んで眼から鱗が落ちる思いだった。

 その上で、小説としての面白さはやはり『親指P〜』だよな、と思う。
『親指P〜』から『犬身』に至る過程で失われてしまったものは、葛藤や揺らぎであると思う。
修行時代には在って、悟りを開いた後には失われてしまうものと考えると分かり易い。
手塚治虫の『ブッダ』だって、悟りを開いた後のブッダよりも、煩悩に引き裂かれそうな若き日のシッダルタの方が魅力だった。
それが社会的であれ、非社会的であれ、登場人物の通念に揺らぎがない、というのは小説としては魅力にかけるのではないだろうか。

ともあれ、松浦さんが『犬身』の後に何を書くのか、すごく楽しみである。