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早稲田松竹で『灼熱の炎』を鑑賞。とにかく圧倒的な物語。
完全に入り込んでしまい、胸苦しくなってしまった。
2本立ての次の1本が始まるまでの少しの間、ひとまず外の空気を吸いに劇場を出た。
外の風景はあまりにも平和だった。空は青くて、街路樹の緑が揺れていた。
いつもより少し強く風が吹いていたけれど、その風さえ、映画の世界に比べたら爽やかなものに思えて、
目の前の風景が正しくないような気がした。
その時撮った写真。

帰り道、ふと思い出して、昨日読了していた『芸術実行犯』の以下引用個所を夢中になって読み返した。

「とはいえ被爆の問題というのは当事者性がとてつもなく大きい。僕らが入り込むすきなんてまったくないほどの、想像を絶する被害者の体験があります。しかもそれは超個人的で、『被爆者』とまとめられるように彼らの体験は一様ではない。知ったように体験を語ることは、もはや今の若者には不可能です。反核の活動家ですら、二世なると当事者ではないから自分が体験したみたいなことを言えない。そんな空気があります。でも、だからこそ、やはり問題になるのは『当事者性』だと思いました。僕らは直接的には原爆や広島の当事者ではないから、安易に代弁する資格はない。しかし、だからといって僕らは原爆を問題にできないのでしょうか?あの審査員が言うように、原爆に関係する資格はないのでしょうか?言い換えれば、『原爆は僕らに関係していない』のでしょうか?僕らが悩んでいたのは、そんな僕らと原爆の関係についてでした。」p.48-49
「『あの日、広島の空をピカっとさせるため、僕たちはかつてないほど空を眺めた。空はきれいで、目の前には原爆ドームがあった。あんまりだと思った』。その『あんまり』な情景は、僕らにとってはまさに平和そのものだったのです。」p.52

チンポムの目に「あんまり」と映った情景と近いものを見ているのだと思った。
この空が青過ぎると感じることは出来事への「当事者性」の現れなんだとも。