『この空の下』大林宣彦 アップリンク

午前中、アップリンクで大林監督の『この空の下』を鑑賞。
昨日から頭をぐるぐるしていた当時者性の問題とドンピシャの作品だった。

(劇中の一輪車の画的な効果の素晴らしさとかはひとまず置いておくとして)
長岡の歴史巡るエピソードの集積(主に太平洋戦争と長岡花火のエピソード)を通じて、
過去の戦争と現在の日々(戦争を体験しなかった人達の日々を含む)との関係を浮かび出そうという試み。

この映画は戦争を知らない人達に「当事者性」を喚起するために2つの手法を取っている。
 ①戦争を知る人たちが現在の花火に「込めた平和への祈りを説明すること」によって当事者性を喚起させること。
 ②戦争を知る人たちが過去の体験を「直接語る様子を見せること」によって当事者性を喚起させること。

①は戦争をそのまま語るのではなく「花火」という異なる表現を通して想起させる。
とはいえ、花火と戦争を結びつけるためにはかなりしっかりとした説明が必要なので、いきおい物語は説明的になる。

②は戦争をそのまま語るので分かり易いが、乱暴に言ってしまえば説教臭くなる。
もっと重要なのは、(俺の場合)「戦争経験者の語り」に対して小学校教育からの免疫があって、
どうしても「戦争の話を聞く構え」を反射的に取ってしまう。そしてその構えは「当事者性」とはほど遠い構えであると思う。
その理由は省略します。眠いので後で考えよう。

結論すると、
『この空の下』は物語としては説明的で説教的になってしまっている。
けれど、映画に込められた熱い想いには胸を打たれたということ。

その点、チンポムの「ぴかっ」は説明的でなく、説教臭くなく、
しかし作品に触れた否応なく想起させるという点で優れているよなー