5/13

前日の夜は久しぶりの外食。そして久しぶりの新規開拓。
帰り道にある「マンディオフ」へ。
楽しそうなグループ客か、もしくはカウンターの常連さんでいつも賑わっており、
気になっていたけれど、なかなか入りづらかったお店。
美味しくて、雰囲気も良い。料理の盛りもよい。いつも賑わっている理由が分かった気がする。
初めてなので、気張って色々注文して食べ過ぎた。ラタトゥユ、また食べたい。

翌日、3日間降り続いた雨が止んでいた。

午後は自転車で東山線を東に向かってぶらぶら。


「ソボクロ」@覚王山
 ・『消費セラピー』/辛酸なめ子集英社文庫


「ZARAME」@覚王山
ドーナッツが有名なお店だそう。次はドーナッツだな。


「On Reading」@東山公園
 ・『なごやのたからもの』/甲斐みのり/リベラル社
 ・『ニクキュー ♯06』/――/ニューヨーカー
 ・『???』/???/???
 ・Salniaのふんわり靴下(1,500円)

『ニクキュー』はファッションブランド「Sally Scott」のカタログ兼雑誌。存在は知っていたが実物は初めて見た。
立ち読みすると、池田昌紀さんによる商品写真に塩川いずみさんがイラストを合わせたカタログがとても素敵で、購入。

『???』はOMIAI BOOKSという企画。
特製の紙カバーに、登場人物を描写した一節が抜粋されており、その一節を読んで共感したら購入する、という趣旨。
タイトルや作者は分からない。
俺が選んだ一冊の登場人物は「性別:男性 荒物屋。仕事に対するやる気が無い。猫を溺愛している」。

東山公園駅前広場で、マックのコーヒーを飲みながら、
今買ったばかりの『ニッキュー』を開き、
掲載されている宮沢賢治の「イギリス海岸」を読む。

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 そうしてみますと、第三紀の終り頃、それは或は今から五、六十万年或は百万年を数えるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海かかん湖で、その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したりまた引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったりまたそれが削られたりしていたのです。その粘土は西と東の山地から、川が運んで流し込んだのでした。その火山灰は西の二列か三列の石英粗面岩の火山が、やっとしずまった処ではありましたが、やっぱり時々噴火をやったり爆発をしたりしていましたので、そこから降って来たのでした。
 その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三、四千年前までは、全く人が居なかったと云いますから、もちろん誰もそれを見てはいなかったでしょう。その誰も見ていない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったりまた晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってとうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちいがまっ黒にしげり、しげったかと思うと忽ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧し潰され、埋められ、まもなくまた水が被さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでしょう。考えても変な気がします。/
 この百万年昔の海の渚に、今日は北上川が流れています。昔、巨きな波をあげたり、じっと寂まったり、誰も誰も見ていない所でいろいろに変ったその巨きなかん水の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。ここを海岸と名をつけたってどうしていけないといわれましょうか。

〜〜〜中略〜〜〜

 そしてそこはもうイギリス海岸の南のはじなのでした。私たちでなくたって、折角川の岸までやって来ながらその気持ちのいい所に行かない人はありません。街の雑貨商店や金物店の息子たち、夏やすみで帰ったあちこちの中等学校の生徒、それからひるやすみの製板の人たちなどが、あるいは裸になって二人、三人づずそのまっ白な岩に座ったり、また網シャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦藁帽をかぶったりsちえ歩いているのを見ていくのは、ほんとうにいい気持でした。
 そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらっているのです。殊に一番いいことは、最上等の外国犬が、向うから黒い影法師と一緒に、一目散に走って来たことでした。実にそれはロバートとでも名の附きそうなもじゃもじゃした大きな犬でした。
 「ああ、いいな。」私どもは一度に叫びました。誰だって夏海岸へ遊びに行きたいと思わない人があるでしょうか。殊にも行けたら、そしてさらわれて紡績工場などへ売られてあんまりひどい目にあわないなら、フランスかイギリスか、そう云う遠い所へ行きたいと誰も思うのです。

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東山公園駅前の広場で、マックのコーヒーを飲みながら、
宮沢賢治が90年前に書いたこの文章を読んで、「ああ、いいな。」と思った。

夜、ちぐさ座で『わが星』/ままごと。
時間をテーマにした劇。
数秒単位と数十億年単位の時間を行き来する。
ついさっきまで読んでいた宮沢賢治の文章とシンクロする。
が、異なるのは
いぎりす海岸』における作者の関心が、悠久の時そのものに向かっている(ように読める)のに対して、
『わが星』は悠久の時を引き合いにして現在という時間を聖化する。
それがすごく今っぽい。
物心ついた頃にはバブルは崩壊していて、進歩とか繁栄といった右肩上がりの立体的な時間軸(未来)には縁が無く、
ずっと横ばい、もしくは円環する時間軸の中で育った自分達にとって、
いかにして「未来」よりも「日常」が、
「ドラマチックな恋愛」よりも「ありふれた毎日」に価値を持たせることが重要なのだという気がする。

そういう意味で『わが星』は今っぽい。
口ロロの音楽も相まって(三浦さん本人が演奏)、途中、気分が高揚して、涙が流れたりもした。
それは「今」を聖化しようとする演劇(儀式)に参加することがもたらす高揚の涙だったかもしれない。
柴幸男の脚本はバイブルで、口ロロの音楽は讃美歌で、役者が預言者なのかもしれない。
・・・書いてみるとすごく陳腐だな。どうなんだろう。

それはともかく、メッセージが今っぽい云々と演劇としての面白さは全然別物。
演出、役者、ともに素晴らしい、文句なしの演劇だった。
とくに主演(と言っていいのかな?)の端田新菜さんが素晴らしかった。
神の言葉かどうかは別にして、瑞田さんじゃない誰かの言葉が瑞田さんから発せられていた。
『真夜中』の最新号で山崎ナオコーラが映画撮影現場を訪問ルポ、という企画があって、
そこで彼女が「関わる人達全てがディティールへの情熱を共有していることがうらやましい」というようなことを書いていたのが印象的だった。映画だって料理だって、良いものはきっとそうである。「わが星」もそうだったと思う。


2011/05/13/17:45のちぐさ座


2011/05/13/19:40のちぐさ座