『ナイフ投げ師』 (白水Uブックス179) スティーヴン ミルハウザー (著) 柴田 元幸 (翻訳)

今回の出張に持っていった、『ナイフ投げ師』/スティーヴン・ミルハウザー、がとても良かった。

「ある訪問」から
まあまあうまくやっているけれど、何かが欠けているような気がする。本当にこれが自分が望んでいた生活なのだろうかと自問しながら過ごしている独り者の「私」が、大学時代に同居していた友人のアルバートから、結婚したから遊びに来ないか、との誘いを受けて久しぶりに彼を訪ねる。そこで友人とその妻であるアリスの生活に完璧なハーモニーを見出した「私」は愕然とする。「私に、私の暮らしに欠けているものは、まさにこうした調和なのだ。アルバートは空気の秘密を発見したというのに、私はといえば、自分が絶対何ものにも溶け込めない何か硬い物質から成っているような気がした」。
ありそうなストーリーかもしれないが、アルバートの妻であるアリスが「身の丈およそ60センチの蛙」だという設定があり得なくてすごい。「私」が疑っているように友人のアルバートは狂ってしまったのかもしれないが、それでも友人宅からの去り際、「私」はアルバートとアリスを取り巻く空気が「調和」に満ちていることに気が付き愕然とする。「私」や私たちがどこかで求めている「調和」の性格ってまさにこういうものだ、そして俺自身の生活にもまさにここで描かれている「調和」が欠けているのだという気がして(=切望しているのだという気がして)、読んでしばらく「調和(ハーモニー)」という言葉が心から離れなかった。

もう1つ、「新自動人形劇場」から。
引用部分は本書に収められているミルハウザーの作品群に共通するテーマがよく出ていると思う。
あと、俺が平田オリザさんのアンドロイド演劇に期待していた何かとも近いような気がした。

「ある名匠がかつて述べたように、芸術は理論ではない。私が多言を費やして繊細な芸術のありようを解き明かそうとしても、逆にそれを曇らせてしまうばかりである。新自動人形の衝撃を、その不穏さを十全に実感してもらうには、新魔法劇場に足を運んでもらうしかない。四肢をぎくしゃく動かすたびに人形たちがおのれの現実ならざる本性を見せつけるなか、私たちは彼らの魂に引き込まれていく思いがする。私たちは彼らのぶざまさを共に苦しみ、彼らの人間ならざる渇望に心を刺される。自分でもよくわらからない形で私たちは胸を打たれる。これら不思議な新参者と混じりあいたい、彼らのからくり人生に入っていきたいと私たちは希う。時おり、私たちは暗い理解を、共犯意識を感じる。ということはつまり、彼らの前にいる時、私たちは単に人間的なものを、制限でしかないものを脱ぎ捨てられるということなのだろうか?自分を解き放って、より大きな、より暗い、より危険な領域に入っていけるということなのだろうか?私たちにわかるのはただ、自分のなかの、いままで触れられたことのない場所を私たちは触れられ、心を動かされているということである。黒い日の出のような、暗い、不吉な美が私たちの生に入ってきたのだ。自分が抱えているとは知らなかった渇きで私たちは死にかけ、その虚構の泉から、なくてはならぬ、だが私たちを苛みもする水を飲むのだ。」

乱暴に言っちゃえば、人間的/道徳的なモラル(英語だとどっちもhumane?)を根拠としつつも、心のどこかではもっと過激で退廃的なものを切望しているというブルジョワ小市民の心理、がミルハウザーのテーマの1つなんだろう。過激で退廃的なものへの希求が向かう先は音楽だったり酒だったりドラッグだったり、色々可能性はあるだろうけれど、ミルハウザーの場合それがしばしば「職人芸」であることがもう1つの特徴。