「表現」ライブ@西日暮里

以下、2010年5月の日記より転載。園田さん、元気かな。


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「表現」、というバンドのライブに行ってきた。

観客が10人限定らしいということ(その回の観客は自分も含めて5人だった)、会場が西日暮里の古びたアパートの一室(普段はギャラリー)だということ。ライブ会場(=部屋)に入ると、自分と同年代であろうメンバーらしき人々が談笑しており、気さくに迎えてくれたこと。ライブの準備が出来るまでと勧められた台所の椅子のつくりが弛んでおり座り心地が悪かったこと。飲み物いかがですか、と勧めてくれたなかに、「コーラス」という乳酸菌系の変なジュースがあったこと。空になったリボビタンゴールドが流し台の上に無数に並んでいたこと。そのすぐ上の窓脇には、水の入った無数の空き瓶が並んでおり、その内の何本かにはカラフルな金平糖から溶け出した色がついていて綺麗だったこと。
そういうこと全てが新鮮で、何か面白いことが始まるに違いないという期待が否が応でも高まる。

実際、ライブは素晴らしかった。
素晴らしいライブを聴きながら思い出したのは、数日前に家でハンバーグを食べていた時のこと。全体的にややレア気味でムニュッとした食感、一口噛むと溢れだす肉汁、そして噛めば噛むほど増す肉の甘み、それら全てが絶妙だった。そして、たまたまその時の俺には「ハンバーグの絶妙さ」を素晴らしいことだと感じる心の余裕があったので、その物凄く美味しいハンバーグを噛みながら、「このハンバーグを食べている今という瞬間がずっと続けばいいのに」と願った。それは今思うと奇跡的な瞬間だったが、実際に声に出してみると少し馬鹿っぽくもあって、「このハンバーグをずっと食べていたい」と言った時、母は呆れていた。
話を元に戻すと、ライブがあまりにも素晴らしいので、「この瞬間がずっと続けばいいのに」と思った。ハンバーグといい、ライブといい、いつもいつも「ずっと続けばいいのに」と感じているわけではなくて、思いだしうる限りライブでそういう風に感じたのは初めてのことだった。

ライブを体験しながら、この素晴らしい体験を人に伝えたい。とくに言葉で伝えるとすればどうすればいいのかと考え始めていた。
例えば、ぞくっとした要素を1つ1つ書き出していくことが出来るだろう。ボーカルを担当する佐藤さんの「声」が明らかに佐藤さんの体内で共鳴して増幅されていることを感じた時の衝撃や、佐藤さんの声にギターの古川さんの声が重なった時の声量とハーモニーに圧倒されたことや、権藤さんがアコーディオンのコードボタンをゆっくりと押してそれを離した時に生じるパンッという小さな音が刻むリズムが印象深いことや、さっきまで鳴り損ねていたかのような縦笛の空気音が、突如ラッパのような破裂音に変わった時の驚き、などなど。
あるいは、外見を知るとその人のことが分かった気になりがちという人の性質を利用して、彼らの写真を貼り付けてもいい(撮ってないけど)。

けれど、言葉や映像をいくら並べても、自分の実力不足のせいもあるが、目の前で鳴り響く音楽には届かないような気がする。

結局、今自分が体験しているものを人に伝えるためには、全ての音を最初から一つ一つ再現して、それを直接聞いてもらう他にはないのではないか、という風に考えたところで「CD」というものに思い当たった。そして「複製メディアによる再生可能性」ということの凄さを初めて実感して少し感動した。
しかし、CDで全て再生出来るだろうか。
開け放しの窓で白いレースのカーテンが風にそよいでいる様子や、そのカーテンを通り抜けて室内に差し込む柔らかな光、室内の植物が放つ香り、アパートの一室に10人の人間が円になって座っているところの距離感、木製の椅子がきしむ音、すぐ近くを電車が通過する音、恐らくその場にいた誰もが汗ばんでいたライブ終盤に鼻孔を通り抜けた湿り気のある空気、「表現」の演奏に合わせて部屋の真ん中で即興製作をしているパフォーマーが、製作に使用していた機械の熱い部分を触ってしまった時に「熱っ!」という具合に手を引っ込めたこと。
そういう膨大なディティールはその時一回限りのことで、それら全てが今この瞬間のライブ体験を作り出しているとすれば…。
確かにメロディや歌詞はCDで再生可能だから、そういったものを期待する場合はそれでいいだろう。現に自分はそういったものを期待してこれまでCDを購入してきたんだろう(あまり意識しなかったけれど)。けれどライブを聴く限り「表現」の音楽にはすぐに分かるようなメロディや歌詞がない。想像するに、テンポも即興に近いのではないか。また音が鳴っていない時間も演奏中の緊張感が途切れなかったので、この沈黙は長い休符なのだろうか?それとも曲間なのだろうか?と分からなくなる。結局1時間半の間に何曲演奏したのかよく分からなかった。CDを買っても、そのような演奏の緊張感に耐えられずにすぐ寝てしまうか、そもそも全然聴かない恐れもある。
それでも、この素晴らしいライブ体験の一端はCDにも複製されており、再生可能なのではないか。だとすればCDで再生可能なものと再生不可能なものは何か。そんなことを思いながら帰りにCDアルバム『旅人たちの祝日』を購入。

今、そのCDを聞きながらこの日記を書いているのだが、それぞれの曲に変化があり、ずっと聴き易く仕上がっている。そういえば、ライブ終了後メンバーに聞いたら、ニューアルバム10曲のうち、今回のライブで演奏したのは1曲だけだそうである。緊張感という意味では、聴く側の心構えの問題もあって、ライブには全然及ばないがCDもすごくカッコよい。CD仕様とライブ仕様を完全に使い分けているところがまたすごい。きっと環境によって色々な表情を見せるバンドなのだろう。
またライブに行ってみたくなる。

ところで、ライブは投げ銭制だった。戸惑った。鳥肌が立つほど興奮したこの経験に一体いくら払えばいいのだろうか。
例えば、俺は社会人になってウン万円のジャケットを衝動買いしたりしている。けれど、そういうジャケットを購入しても「表現」のライブで体験した心の中のうねりのようなものは発生しない。体験の深刻さを値段で計ることが出来るとすれば、今回のライブはとても高いライブになりそうだ。ウン十万円払えばいいのだろうか。でもそれも違うだろうと思う。それは俺がケチだからではなくて、少なくとも今回の体験を「価格」という考え方で処理すること自体が違うだろうと思う。
ライブ体験というのは、私の「需要」に対して、バンドという他者が何かを「供給」しているのではない。私とバンドが混ざり合ってライブ体験を形成している。そのことを今日強く感じた。
主語は「I」ではなく「We」である、と言うと分かり易いかもしれないが、それとも違う気がする。ライブの最中で、演奏者も含めて「私が」とか「私たちが」という風に思考した人が果たしていたのだろうか?あの空間に主語はあったのだろうか?
ところで、ライブ終了後に即興パフォーマーに「あの時、音楽を聴きながら何を考えていたのですか?」と俺が聞いたら、「普段内気で人前でパフォーマンスすることがあまりないので、何も考えずにひたすらつくっていました」と彼は言った。その時の俺は「ふーん」という程度のアホな相槌しか打てなかったが、「何も考えずにひたすらつくる」というのはよく考えたら不思議なことで、何も考えずに何かをつくれるのか?と考えてみるべきだろう。そしてそれは「あの空間に主語はあったのだろうか?」という俺の疑問とつながっているような気がする。
そう言われてみれば俺だって何かを考えながら聴いていたわけではなく、ひたすら聴いているうちに色々考えたり感じ始めたのである。「私が聴いている」というよりも、「聴いている私がいる」と言う方が実感に近い。彼も「私が製作している」よりも「製作している私がいる」という実感だったのかもしれない。似ているけれど、前者の「私」が聴くよりも前にいるのに対して、後者の「私」は聴きながら変わっていく。

体験の渦中に「私」が誰もいなかったとすれば、やはり体験自体に値段をつけることはできない。それは「私」が買ったり売ったりすることが出来ないものなのだ。

だけどやっぱりお金は必要だ。商品に対する価格ではなく、未来に対する貯蓄という意味で。「表現」というバンドがこれからも活動できるように。例えば赤字になってバンド解散とかいう風になった時に一番悲しいのはバンド自身だろが、きっと俺も悲しくなる。活動を維持するために貯蓄するのである。そのために必要なお金は「体験」とは異なり、ある程度計算することが出来る。バンドの生活費みたいなものだ。結局、体験に対しては何も支払わず、場所代として2,000円を置いた。後で調べてみると普段のライブは2,000円前後のことが多いので、まあまあ妥当だろうか。

他に、「時間」と「バックミュージック」についても考えた。が、書き始めてかれこれ2時間位経つので、そろそろ終わりにする。
借りてきたDVD『まぼろし』も観たいし。

兎にも角にも素晴らしい体験だった。
みなさんおススメですよ!

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