『スリランカの悪魔祓い』/上田紀行著、徳間書店


今週末に控えたスリランカ旅行の予習として読んだ『スリランカの悪魔祓い』。すごく良かった。
スリランカの悪魔祓に関するルポタージュとしての魅力があり、文化人類学という学問と格闘する若者の成長物語としての魅力もあった。逡巡を経て著者が辿り着いた結論めいた分析もハッとするものがあった(学術書としての魅力)。

驚いたのは、「スリランカの悪魔祓い」においては、呪術やトランス状態でのダンスを含むシリアスな悪魔祓いの後で、悪魔達が下品な漫談を繰り広げて、村人たちを大いに笑わせるのだということ。悪魔祓いにおける呪術やトランスとは想定の範囲内だったし、何となくそれっぽい光景を連想することも出来る。けれど悪魔達が漫談を繰り広げている光景は全く想像出来なかった。患者と村人が一緒になって笑うことで人々のつながりが取り戻されるという機能があるという説明を聞けば納得は出来るけれど。とはいえ、つながりを取り戻すだけなら皆で食事をして踊る、とかでもいいわけです。何も漫談までしなくても、と思うけれど。その辺りは本書では言及されていないのですが、本書に照らして推察すると、「笑う」という行為が、下記でも引用している「YES」と「NO」における「YES」の部分に強く対応しているのではないかなと思うと、ここから「笑い」論にも展開してしいけそうな気がします。というわけで、以下は引用です。

あっ!一点不満は文庫版の方が装丁が良いということ。
俺はフライングブックスでハードカバー買ったけど。文庫版のデザインでハードカバーだったらもっとカッコよ良かったのに。




(補足)引用文にある「YES」と「NO」はそれぞれ、人間関係における「いのちのつながり合い」「大いなる同一性」への注目(Yesの眼差し)と、人間関係における「他のものとの差」や「自我・エゴ」への注目(Noの眼差し)に対応している。本文中ではさらにそれぞれを右脳的/左脳的とも形容している(マジックワードのような気がして俺はあまり好きではないけれど)。

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「どんな人に悪魔が憑くのだろう」
そう訪ねると呪術師も村人もこう答える。
「それは孤独な人だよ」
孤独、タニカマという言葉だ。それは物理的な孤独でもある。例えばひとりで川辺で水汲みをしているとか、誰もいない家でひとりでいるとか。そして心理的な孤独でもある。寂しい。家族がかまってくれない。兄弟の中でなぜ自分だけが冷遇されているのだろう。世間の風が冷たい。そんな疎外感だ。
村の人々は孤独な人に悪魔のディスティが来るという。ディスティとは眼差しという意味だ。孤独な人が悪魔に眼差される。悪魔の力とは患者を眼差す力なのである。ディスティという言葉は悪い意味にだけ使われる言葉だけれども、それが眼差しだということは重要だ。孤独でない人には悪魔の眼差しはこない。つまり、人が眼差し眼差されあうような温かい関係の中にあるとき、悪魔の眼差しはこない。しかしその温かい人の輪の外に投げ出されてしまうと、人は悪魔に眼差されてしまうのである。 p.89

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悪魔祓いの考え方には、潜在能力の活用だけでなく、YESとNOに対する鋭い洞察が含まれている。ディスティ(悪い眼差し)とはつまるところNOの眼差しのことである。そこには隠れたメカニズムがある。アユルヴェーダ医学ではひとつの健康状態を体内の三体液のバランスで考えるが、ゴーミス師によれば、ある人が他の人に嫉妬をいだいて眼差しすとまず眼差すひとの体内の体液のバランスが崩れ、それが空気を伝わって眼差される人に伝わり、体液のバランスを崩させて、眼差される人を病気にするのだという。つまり、NOの眼差しによって、見る人も見られる人も体液のバランスが崩れ、双方が病気になってしまうというのだ。それが「呪い」だ。そこには「隠された力」と関係性についての本質をついた洞察がある。その癒しにはNOの眼差しをYESの眼差しに変えることが必要不可欠なのである。 p/215-16