『マダム・エトワルダ』、バタイユ著、中条省平訳、光文社文庫

その日、早稲田松竹テオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』の18時半からの回を観に行くために渋谷の街を歩いている途中、
やはりどうもそういう気分にはなれなくて、その代わりに代々木公園に向かった。

緑溢れる代々木公園で、噴水を赤や黄色や紫色に照らす人工的なライトを余計だと思ったことはないだろうか?俺は最初そう思った。
けれど、5月の夜風に体温を奪われてふるえ始めた体を、日が暮れた後も聞こえてくる民族楽器の音色に委ねながら「マダム・エドワルダ」を読んだ後では、
時々消えたかと思うほど小さくなったり、時々夜の木々より高く伸びたりするカラフルな水柱のとめどなさが、「湧き上がる泉」のようなエドワルダの悦楽に重なって、
刹那的で痛々しくて胸苦しくて、けれど美しくて目が離せなくなる。
とりわけ、いったんライトが消えた次の瞬間水柱が赤く闇に浮かび上がる時の美しさにハッとする。
そんな風にしながら、バタイユやあの人がその下でふるえている冷たい空虚な夜を思う。

「女が私を見た。そのとき、女の目つきから、私は不可能なものが戻ってきたのを知った。女の奥底には、めまいがするほどじっと動かぬなにかがあった。体の根っこで彼女を浸した水が涙となってほとばしり、目から涙が流れおちた。この目のなかで愛は死に、夜明けの冷たさがあらわれ、その透明さに私は死の影をみてとった。そして、すべてがこの夢のまなざしのなかで結ばれていた。ふたつの裸体、肉を開く指、私の不安、泡をふいた唇の記憶。なにもかもが、盲目のまま死のなかへ転がり落ちることにつながっていた。
エドワルダの悦楽―――湧き上がる泉は-彼女の胸がはり裂けるほどに―――あふれながら、異様に長く続いていた。」/『マダム・エトワルダ』、バタイユ著、中条省平訳、光文社文庫、p28-29