『季節の記憶』/保坂和志、中公文庫

以下、2008年4月のmixiの日記から転載。
今読み返してみると本文中でAとかB´とか振ってる議論が全然理解できない。ひどい悪文だ。

でも、最後の2行で言わんとしていることは分かるよ。5年前の俺。
『季節の記憶』を読んで、保坂和志を読んで、考え抜いた結果辿り着いた「まあどちらでもいいや」という地平を知った時の新鮮な感覚を伝えたかったんだよね。

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社会関係資本(social capital)」という概念がある。要はコネもあなたの重要な資本ですよ、という事だ。
 社会関係資本の内容(=それが信頼に基づいているかどうか)を問題にする論者もいれば、その効用(=それが生産性を向上させるかどうか)を問題にする論者もいる。

この前の授業での議論。
A:人間関係における「信頼」と「生産性」を、「社会関係資本」という1つの概念で同列に語ってしまうという用語法に違和感を感じる。「彼のことを信頼している」と「彼は利益をもたらしてくれる」は全く次元の異なる問題ではないか。(さらに言えば、そもそも、「人的資本」とか「社会関係資本」のように、人間や人間関係を資本として捉える言い回し自体に違和感を感じる)。
B:人間関係において「信頼」と「生産性」を区別出来ると考えるなんてナイーブだ。私たちが生きている資本主義社会において両者は区別出来ない。
  
 この議論が面白いのは、一見正反対のAとBの意見が、実は両方ともAの視点に基づいているということだ。信頼と生産性を「区別」出来ないのではなくて、信頼と生産性が未分化な人間関係(B’)という次元が多分存在する。俺も含めてAの枠組内で語ろうとすると、どうしてもB’には届かなくなってしまう。
 もともとBの議論はAの発案を受けて、仮想的に提出されたものだ。こういう考え方も出来るのでは、という風に。資本主義の精神に親しんでいるアメリカ人はきっと人間関係における信頼とか生産性とか気にしないんだよ、という風に。

 でも、日常的な経験を通じてB’に近づくことはできる。
ある人と話をしていて、その人が自分を「信頼」しているのか「生産性」の対象として見ているのか分からなくって疑心暗鬼になるが、その内どっちでもいいやと思う。多分どっちでもないんだろうな、と。   そんな時だ、B’に近づけるような気がするのは。
 とすると結局B’もAの産物だということになり、世の中にはAしかいなくて、BもB’も想像上の産物だということになる。だけど、誰がAで誰がBで誰がB’かは流動的だ。「社会関係資本」についてAの立場を取る人も、思わぬところでBあるいはB’として認識されているかもしれない。
 そういう風に考えると、ある人がある事柄に対して、生産性と信頼を同一の次元で語っていたとして、最初そのことに違和感を感じたとしても、(その人が魅力的であれば、)まあどちらでもいいや、という風になる。
 『季節の記憶』の主人公のナッちゃんに対する心の動きなんか、そういう部分があると思う。今回の日記を書いた理由とは関係ないけれど。